鶴澤寛乃佑師匠の思い出

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 鶴澤寛乃佑師匠、昭和56年度名古屋市芸術賞大賞を受賞されている。名古屋市のWebページで歴代の受賞者を見てみると、そうそうたる人たちが並んでいる。当時私はすでに名古屋を離れていたこともあり、若気の至りでそれほど実感がわかなかったが、すごい受賞だったのだ。

 今思うと、あの場末の質素な家に住み、お弟子もさほど多くなかった稽古屋の師匠が受賞されたのは不思議な気もする。

 ただし、私が稽古に通ったのはほんの1年余り、今にして思えば、もっと丁寧にご本人の経歴など調べておけばよかったのだが、40年近くの歳月が過ぎた今、断片的な記憶だけが残っている。

 稽古に通うようになったのは、大学4年目の昭和52年、それまで続けてきた落語に登場する歌舞伎や浄瑠璃に興味が高まって、とうとう義太夫が語りたくなった。故桂枝雀の理論で言うならば「緩和」の芸に飽きたらず「緊張」の勝った芸に浸りたくなったわけだ。

  寛乃佑師匠の名前は電話帳で見つけた。本名大橋浅乃さん、ご自宅は名鉄堀田駅から徒歩5分ほどの南区花目町、隣の家と壁でつながった古い小さな家で、入ってすぐの梯子段を上がると薄暗い納戸のような部屋があり、夏場などはそこで浴衣に着替えて、通りに面した8畳ほどの部屋で稽古をつけてもらった。

  稽古は見台を挟んで差し向かい。「断っておきますが、私は厳しいですよ。」というのが第一声だった。痩せて小柄な80才近いおばあさんだったが、浄瑠璃はすべて頭に入っていて本を見るということは全くなかった。「もっとしっかり語りゃーせっ!」勘所では文字通り叱咤激励された。

 時にクソミソにけなしておいて、終わったとたんに「そんでもだいぶしっかりしてきましたなも。」と言ってにっこり笑うのだが、これがまた絵に描いたような営業用の笑顔であった。

 常滑から通ってくるお弟子があったが、この人があまり器用な人でなく、しょっちゅう怒られっぱなし。ある日堀田駅に降りたものの、歩道橋を渡る途中で「あーあ、今日も叱られるのか。」と家に引き返したという話がある。

 また、別のお弟子、この人は声もよく節回しにも自信もあったようだが、「中将姫の雪責め」を稽古してもらっているときに師匠の三味線にクレームをつけた。竹澤団六(現鶴沢寛治)師の録音と違うと言うのである。とうとう師匠と言い争いになった。「その三味線では語れん!」「そんなら大阪へ行って団六さんに弾いてもらやーせ。私ゃこれしか弾けん!」と言われて、結局「御無礼しました。」と謝っていた。

  私の場合は幸いのみこみがよかったのと、北海道の自衛隊にいる孫に年恰好が似ているとかでずいぶんかわいがってもらい、あまり叱られた記憶がない。

 お弟子にはお医者さんや商店主、会社の重役さんといったいわゆる旦那衆が7人ほど、20才ほどの女性が2人、他に住宅公団の若い男性6人ほどが団体で景事ごとなどを習っていた。60才ほどのプロの女の弟子もおられたが、体の調子が悪そうだった。

 声を喉にかけず顎を使えというのが持論で、うまく音を響かせるために顎をわずかに左右にずらすように言われた。あるとき語っている私の顎を後ろからつかんで「こっち向けて。次はこっち。」と左右に動かしたあげく、「よう私を人形遣いにしてくれやーした。」と言われたことがあった。

  「息の抜けた芸はダメ。」ともよく言われた。語っている間は勿論、三味線の前奏や間奏の間もむやみに呼吸をしてはいけない。ドラマの密度だけでなく、演奏そのものの緊張感を大切にされていたのだと思う。「眉毛で息を吸え。」という言葉があるが、語り出しの直前にぐっと胸を張ることによって自然に空気が入るというのだ。

 むやみに大きな口をあけることもいけない。登場人物の性根を保つには顎を使った音が続かなければならない。大きく口を開けば性根が抜けてしまう。感情を込めようとオペラ歌手みたいに口を開けて語ると「アホになってますわ!」と叱られた。

  「耳は祐筆やから、やれと言われてもできませんが、耳が承知しません。」というのが口癖で、私が夏の朝日座の「夏祭浪速鑑」の長町裏の段がよかったと興奮気味に報告したが、「綱さんと鏡大夫の泥場聞いたら、他は聞けません。」とてんで相手にしてもらえなかった。

 次の年、中日劇場文楽の「寺子屋」が上演されたが、座席に正座して聞いていた寛乃佑師は「昔の何大夫の寺子屋はよかった。誰それの寺子屋も立派だった。」と言い始め、ついには「こんなの聞いてられませんわ。」と上演中に退席してしまった。

 その年の冬、社中の発表会があった。私の演目は「絵本太功記」十段目、十次郎と初菊の別れの場面(光秀の出る前)。緊張して汗をいっぱいかいてしまったが、落語で舞台度胸がついていたので自分としてもいい出来だったと思う。

 夜は宴会となったが、私は余興に落語「寝床」をこの日のためにおぼえて演じた。マクラの「あんた、長いこと座ってても痺れの切れんところがええわぁ。」というところでは客席から身につまされたような笑いが弾けた。主人公の旦那が「私は生涯浄瑠璃は語りませんぞ!」と怒鳴るところでは、酔っぱらった寛乃佑師が「やめんといてちょう!やめんといてちょう!」と合いの手を入れるのでちょっとやりにくかった。

 師匠から聞いた昔話その1。今でいうチャリティの演芸会で、ある旦那が浄瑠璃を語ったが、どうもうまくない。しまいに客が「はぁ、よーいよい。」と間の抜けた掛け声をかけたものだから、絶句して語れなくなった。やにわに立ち上がった旦那が「オイお前ら、ここへ上がってこれだけ語れるもんなら語ってみい!」「ヘン、こっちで聞けるもんなら聞いてみい!」まるで落語のくすぐりそのものである。

 師匠から聞いた昔話その2。先代住大夫の言い間違いは若いころから有名だったらしい。文字大夫時分に「近頃河原達引」の堀川で「お俊が伝兵衛を殺しに来たーっ!」とやったものだから、三味線方が吹き出してしまい、しばらく弾けなくなってしまった。「何ですのん文字さん!」と寛乃佑師は気安くからかったりできる仲であったらしい。

 先輩のお弟子の話などによると、寛乃佑師匠のスタートは語りの方で、義太夫芸者としてお座敷に出ておられたらしい。やがて中年になり、世間の好みも変化して生活のためには三味線に転向するしかなくなった。ちょうど名古屋へ稽古に来ておられた先代寛治師に無理に頼んで弟子にしてもらった。寛治師は妥協を許さぬ稽古で叱られっぱなしだった。「手を見るな!」「顔を見るな!あんたなんかに見られてもうれしないわ!」といった調子で、名古屋駅に迎えに行くと、いかにも不機嫌な顔で汽車から降りてくる。反対に大阪へ帰るときはニコニコと機嫌がよかったそうだ。

 寛乃佑の名を許されて披露目を御園座でおこなった。演目は「阿古屋の琴責め」。ツレは先代寛治師、三曲は現寛治(当時団六)師が出演された。前日は寛治師にしごかれて緊張で眠れず、睡眠薬に頼ったところ、当日朝は朦朧としてしまった。寛治師は「ごめんしてやぁ」と日頃とは別人のようにやさしく気遣ってくれた。長年師事するうちに演奏中に左肩が下がるクセばかりか顔つきまで師匠に似てきたといわれるようになったが、普段は怖くてろくに質問もできなかった。最後に寛治師の病床へ見舞いに行った時に、「あんた、ようおぼえてくれたなぁ」と感謝の言葉をもらって、ようやく思い切っていくつか質問ができたとのこと。

 私のお稽古通いは学業が忙しくなり、ほぼ1年間で終わった。それでも年に何回かはお稽古に伺ったりしたのだが、そのうちに何人かのお弟子が亡くなったりして次第に社中の人数も少なくなっていったようである。私が顔を出すと「このごろはすっかりボケ老人になってまって。」と言いながら三味線を持つとしゃんとしてお稽古をつけてくださった。
 私は昭和55年の春に就職して名古屋を離れた。その後3年ほどは年賀状ももらったがそのうち返事が来なくなった。約8年ぶりにたずねていくと、娘さんが出てこられて3年前に亡くなられたとのことだった。

 

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